安全保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動

7月31日、「安保保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動」が砂防会館にて開催された。

1部、2部で、学生5名、学者4名の素晴らしいスピーチが行われ、会場には拍手、笑い、涙が溢れた。

そのスピーチを順次、書き起こす。

安全保障関連法案に反対する学者の会

SEALDs 自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクション

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撮影:おしどりケン

 

書き起こし目次

1部

神戸大学大学院 津田研人

廣渡清吾 専修大学教授

東北大学 斎藤雅史

岡野八代 同志社大学教授

明治学院大学 奥田愛基

2部

高山加奈子 京都大学教授

中野晃一 上智大学教授

 

岡野八代 同志社大学教授

撮影:おしどりケン

撮影:おしどりケン

皆さんこんにちは。

今やおそらく最も大学の学長としてはですね、有名になった学長をもつ同志社大学から来ました。

今日は、この様な会を開催して頂き関係者の方に心から感謝しております。

そして、SEALDsの皆さん心より連帯の意を表したいと思います。

 

今、民主主義は悲鳴をあげています。

日本の民主主義は怒りに、怒号にまみれています。

しかし今、こうして皆さんと一緒にしていることでわかるように、日本中で新しい次世代の未来を予感させる民主主義の産声もわたし達は聞いています。

SEALDsはじめ、多くの学生・若いお母さん・子ども・労働者これまでずっと9条を守ると訴えてきた人たち・原発再稼働止めようとしている人々・沖縄で座り込みをしている人・平和な生活をずっと求めてきた人・そして戦争を体験した人・宗教者や研究者たち。

これまでの無関心や諦めなど吹き飛ばすように、本当に色々な立場の人が今、戦後の民主主義の根幹を守るためにこうして立ち上がり声を上げ安保関連法案を絶対に止める、私たちの手で止めると各地で毎日のように行動しています。

 

私の専門とする政治思想史を少し振り返れば、民主主義とは「政治」という言葉が生まれたと同時に生まれた政治学の用語の中でも最も古い概念の1つです。

そして、政治学上これ以上に毀誉褒貶(※筆者注「きよほうへん」そしり、ほまれ、様々な評判)にまみれた概念はないと思います。

それどころか、18世紀のフランス革命以後でさえ多くの哲学者や政治学者は民主主義に対して、不信感と侮蔑感そして、恐怖心さえ露にしてきました。

 

その理由は2つほどあると思います。

1つは、民主主義の主人公である民衆への恐怖心と軽蔑。

2つ目は民主主義は最悪の政治へと堕落する、その一方手前である。という非常に伝統的な考え方です。

だからこそ、民主主義が堕落しないために批判的精神を持った市民を育むための教育、表現の自由や結社の自由、そして市民の不安や社会の不正義をしっかりと伝える報道の自由が民主主義に不可欠な機能として確立してきました。

 

言うまでもなく、安倍晋三という政治家はこれまでこうした民主主義の砦とも言える教育、報道の自由に対して破壊しようという企てをしてきました。

そして今、普遍的な人権に根ざした憲法、つまり民主主義の根幹を蝕もうとしています。

 

SEALDsの皆さんのコールの中で、私たちは何度も「民主主義ってなんだ」これもう、リズムがないと言えないんですが、「民主主義ってなんだ」という言葉を聞いています。

これまで「民主主義」という言葉がこれほど社会にこだましたことが今まであったでしょうか。

「わたし達の声を聞け」「お前たちはわたし達の代表じゃないの?」という訴えは民主主義を堕落させしまわない為の市民にとって不可欠の訴えです。

 

わたし達市民は国家のもとで生きる限り、誰もが例外なく法律に従って生きなければなりません。

この法律はときには罰則さえ課せられる強制的な法で、その外部に逃れようとするなら国外逃亡ぐらいしか道はありません。

生まれたら名前とともに役所に届けられ、最後には死亡届を出す。

といったように、わたし達の一生は法に従う一生だともいえます。

 

自由であるはずの人が、なぜこんな強制法のもとで生きているにもかかわらず、自由だと言えるのでしょうか。

私は近代民主主義の発明の核心はここにあると考えています。

「民主主義ってなんだ」という答えの一つは。

 

 「私の作った法にしか私は従わなくても良い仕組み」

 

それはひとつの答えだと持っています。

私が作った法にしか従わないのだから、私は法の下でも自由でありうる。

もっと言えば、自由であるためには自分自身で法を探しその法に従わなければならないのです。

これが人民主権の大原則であり、1人の自由と他者の自由が平和のうちに共存できるための人類が産み出した叡智です。

ここに立憲主義と民主主義が結びつきます。

自分で発見した法に従うことが、自由であるならば、他者と同じように自由であるため、他者も同じように自由であるためにはその法は誰もが納得でき、誰もが誰も排除しない方法を見つけ出す必要があります。

つまり普遍的な人権に基づく法の発見です。

したがって、現在の日本国憲法はその前文において、政治道徳の法則は普遍的なものである。と主張しています。

 

 「民主主義ってなんだ」

 それは私が私であるための、

 あなたがあなたであるための、

 人類が長い時間をかけて創り上げた政治システムです。

 

民主主義を破壊するものは、他の誰でもない私を破壊します。

民主主義をかけた戦いは、私をかけた戦いです戦いでもあるのです。

今日もまた皆さんと「民主主義ってなんだ」とコールをしたいと思います。

どうもご清聴有り難うございました。

撮影:おしどりケン

撮影:おしどりケン

我々が「権力」と理解しているものは、実は「暴力」か

ケンパルは、この岡野教授のスピーチを書き起こしている際に、何度も号泣していた。

最近、筆者とケンパルが学んでいる「民主主義」に、まさしくこの部分が出てきたのだ。

政治哲学者、ハンナ・アレントの言葉を引用する。

アレントは、ドイツ出身のユダヤ人で、アメリカに亡命した。

自由であるということは、生活の必要、あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという、二つのことを意味した。

それは支配もしなければ支配もされないということであった。

 

平等は、現代のように正義と結びついているのではなく、ほかならぬ自由の本質だったのである。

つまり、自由であるということとは、支配に現れる不平等から自由であり、支配も被支配も存在しない領域を動くという意味であった。

 

権力は、活動し語る人々のあいだに現れる潜在的な現れの空間、すなわち公的領域を存続させるものである。

「人間の条件」より

 

民主主義における「権力」とは、私たち自身が作りだすものである。

主権を持った私たちが、自ら考え、動いたときに、その空間「支配も被支配も存在しない領域」を存続・維持されるときに現れるもの、とアレントは書いている。

「権力者」が、一方的に押し付ける法律は「権力」ではない。「暴力」なのである。

 

「支配もしなければ、支配もされない」という自由とは何か。

筆者とケンパルは、ここ数週間、この問題を考えていたが、岡野八代教授のスピーチで理解できた。

もう一度、その部分を抜粋する。

 

私が作った法にしか従わないのだから、私は法の下でも自由でありうる。

もっと言えば、自由であるためには自分自身で法を探しその法に従わなければならないのです。

これが人民主権の大原則であり、1人の自由と他者の自由が平和のうちに共存できるための人類が産み出した叡智です。

ここに立憲主義と民主主義が結びつきます。