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【追悼】横山マコト師匠(前半)

Byoshidori-makoken

4月 26, 2022
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4月22日に、横山マコト師匠があちらにいかれました。

横山ホットブラザーズの次男、アコーディオンのマコト師は、私たち、おしどりの師匠です。
師匠がいなかったら、漫才をしていませんでした。

23日の上野鈴本演芸場の高座の前に、携帯にマコト師から2回着信があるのに気づき、
あああ、この電話を返したくないな、と思ったら、案の定、マコト師の息子さんからで、
前日にマコト師があちらにいかれたことを知りました。

23、24日と、おしどりは寄席の「ヒザ」(トリの前のお出番。色物が務める重要な位置です!)を初めて務めたのですが、
わー絶対、マコト師は寄席のどこかでに来られてるわ!と思いながら、
鬼気迫る舞台にしよ! とおもったら、なんか気が散ってただけだったような気がします、トホー!

高座で「このアコーディオンは、師匠、横山ホットブラザーズの横山マコトのアコーディオンなんです!」
と、いつもより大きく目立つように言うと、
トリの柳家さん八師匠に「そうか、きみら横山さんとこの子なんだねー」と言っていただきました。

とても、とても、大好きなマコト師匠!
もっと、もっと、お話を聞きたかった!

マコト師から伺ったお話を、忘れないようにできるだけ書いておこうと思います。

弟子入り

私が大阪の天王寺でアコーディオン流しをしていたとき
いつもお客さまがいっぱいで、ちょっとした街の変人有名人になっていました。
そのときに師匠がたのほうから「弟子にならへんか」と声をかけて頂いて。

アコーディオン流しの前のちんどん屋の時分から、ホット師匠には憧れていたので
えええ! 弟子入りのスカウトなんて、めっちゃ嬉しい!!と大喜びでした。

「音楽ショーや音曲の弟子がおらんでなぁ、
新聞広告で『ホットブラザーズの弟子募集』とかやったことあるんやで。
でも、音楽はできるけど、喋られへん、ていう、バンドマン崩れとか、
喋りはできるけど、楽器はできへん、ていう、芸人崩れしか集まらんかってん。
楽器もって漫才する、ていうのを皆、舐めとるんやろなぁ。
楽器も喋りも、両方できなあかんねん。

天王寺の駅前にな、アコーディオンもよう弾けるし、達者に喋れる、ていう若い子がおる、て噂を聞いてん。」

そして、相方を見つけておいで、そして漫才はじめたら弟子にしたろ、というわけで、まずは相方さがし。
当時、すでにケンパルと結婚していましたが、でもケンパルはパントマイムの芸人だったので
全く喋れず、そして本人も喋るんは嫌い、ということで、ハナから相方候補から除外していました。

結局、アコーディオン、ギター、三味線という女3人で組むことになり
「ん、かしまし娘やちゃっきり娘みたいやな、かしましさんも、昔はホットブラザーズにいたんやで」

けど、ある日、家に帰ったら、ケンパルが酔っぱらって号泣していました。
「マコちゃん、なんで僕とコンビ組んでくれへんのぉ~!」
慌てて師匠に電話して相談すると
「せやな、漫才コンビを30年40年続けよと思ったら、兄弟とか親子とか夫婦とか、家族と組むんが一番続く。
旦那が組みたい言うてるんやったら、赤の他人と組むより、旦那とコンビ組んだり。」
ーーでも、師匠、数10年組んではる〇〇さんとか、△△さんとか、赤の他人と違いますのん?
「アホやな、同性コンビでも、あそこらへんは皆、夫婦や。」
芸人の世界ではとっくにいろんなジェンダーの方がいらしてたように思います!

漫才はじめ

そしてケンパルと組んで、コンビ名を初めて考えたのは2003年のM-1グランプリに出場したときです。
申込書を書くために、コンビ名を書かねばなりませんでした。

「うちはな、横山エンタツ・アチャコさんや、横山やっさんらの漫才の屋号の横山とちゃうねん。
本名が『横山』でな、兄弟で漫才やっとるから、横山ホットブラザーズや。
せやから弟子はな、横山やなくて、『立山』を名乗るんやけど、せやなぁ、
今どき、師匠弟子の育ちより、養成所出身の漫才コンビのほうが多いやろ、
屋号の名前を名乗るんも流行らんから、自分らでコンビ名つけてみ。」

そして、最初に思いついた名前は『千鳥』です。
出囃子も千鳥にして、千鳥柄の手ぬぐい作って、そうやって夢が広がってたところ、
M-1グランプリ事務局から申込書が突っ返されてきました。

「すでに売れてるコンビで『千鳥』がいます。」

そ、そ、そうなんや!
というわけで、「おしどり」と名付け、M-1一回戦が初舞台。
けど、ケンパルは緊張してほとんど口をきけず、私が一人で話を進めて、
ケンパルはうなずくだけだったという、相方というより人間大道具でした!

ー-師匠、ケンパルが全然しゃべれませんねん。
「そやなぁ、喋りじゃなくて、本人が一番おちついてできることを最初にやらしてみ。
最初にしゃべり以外で、拍手もらえたら、おちついて喋りよるわ。
ケンは何がええの? え? ペンチ持ってたらおちつく? 針金まげる?
うん、まぁそうやな、師匠がノコギリやから、弟子がペンチでもええやろ。」

そうして、最初にペンチと針金で何か作る、という芸風になりました!

M-1二回戦が二回目の舞台、三回戦が三回目の舞台、一回間にはさんで、
五回目の舞台が準決勝でした。
準決勝になると、千鳥さんとご一緒し
ふうん、あの人らが『千鳥』か、うちらの方が千鳥ぽいやんけ! と訳もなく対抗心燃やしたのを覚えています。

ガラケーでの写真なので荒くて申し訳ない!マコト師とマコ

よしもと移籍

M-1で準決勝まで行き、直後のR-1ぐらんぷりでも私は準決勝まで行き。
漫才を初めて3,4カ月のうちに踏んだ舞台は、ほぼその賞レースの予選だけです。

「そうやなぁ、お前らは、よしもとに映ったほうがええかもしれんなぁ」

横山ホットブラザーズの事務所はケーエープロといって、松竹系列の芸能事務所でした。
天王寺のアポロビルとかを持ってた岸本グループという不動産グループの「K」と、
漫才作家の秋田實先生の「A」で、ケーエープロです。

吉本も松竹も、会社のための芸能事務所で、芸人のための芸能事務所を作る、と
秋田實先生が立ち上げたのがケーエープロだったそうです。

海原お浜小浜師匠や、月亭可朝師匠らがいらっしゃいました。

「ケーエーはええ事務所やけど、劇場をもってない。
芸人の腕が上がるのは、毎日、劇場に出ることや。
単発で舞台に上がっても、営業に行ってもあかんねん。
同じ舞台に毎日毎日あがって、同じネタをかけて、ネタを練っていくねん。
同じネタでも、毎日違うお客さんを感じて、ああしよう、こうしよう言うて、練っていくねん。
それが大事やねんな。

よしもとやったら自前の劇場をたくさん持っとるやろ、
ケーエーにおるより、よしもとに移って、劇場に出してもらえるようになったほうが絶対ええ。

小さい事務所で賞をとってもな、『おめでとう!』で終わりや。
劇場もっとる会社なら、劇場の出番が増える。
よしもとに移ってみ。どこにおってもワシの弟子は弟子やから。」

とんちでよしもと入り

「よしもとの知り合いの師匠に、ワシの弟子あずかって、ということもできるんやけど、
そうすると気を使われるやろ?
よしもとは養成所育ちの漫才師が多いから、同期とかおったほうがええ。
いっぺん自分らで下から入ってみ。そのほうが後で同年代と付き合いやすいと思うわ。」

よしもとに下から入る? でも、どうやったらいいか全然わかりません。

ケンパルを自転車に乗せて(二人乗りはやってはいけないことですが!)
なんばグランド花月の裏口に行き、(M-1準決勝の舞台がNGKだったので、楽屋口は知っています!)
受付の警備員の方にこう言いました。

「よしもとに入りにきました!」

すると警備員の方「この季節、そういう人多いんですよ…」

ちょうど夏休みだったと思います。けど警備員の方やさしくて
「誰か、よしもとの社員さんで知ってる人おらへんの?
そうしたらつないであげるから。誰か名前わからへん?」

「ええと、顔は知ってるんですけど、名前は分からなくて…」
「どんな顔の人? 特徴いうてみて?」
完全に、怪しい人物です! 警備員さん、よう相手してくれはったな…

すると、突然、後ろを、唯一知ってる社員さんが通りました!

「あれ、おしどりやん、何してんの?」
うわー!この人が顔しってる社員さんです!!

M-1グランプリのときに顔見知りになった社員さんが、たまたま!通りかかったのです。

「ふうん、よしもとに入りたいんや?ええんちゃう?
おしどりやったら仕事増えると思うわ。おいでおいで!」
コーヒーごちそうしてくれて、そんな話をしてくださいました。

帰り道、マコト師に喜んで電話すると
「その、よしもとにおいでって言ってくれはった社員さんはいくつぐらいや?
偉いひとか? え? たぶん20代? おいで、言われただけで何も決まってない?
そうやな…もっと年配で偉い人に、よしもとに来いと言うてもらわなあかんで。」

えー…年配で偉い人なんか知らんし、警備員さんに社員さんの名前きかれても分からへんし。

そこで!
私の天才的なとんちがひらめくのです!

そうや!なんばグランド花月は劇場やから「火元取扱責任者」の札がかかってるやろ、
「火元取扱責任者」は、きっと年配で偉い人や!

そうして、劇場に自転車で戻って、火元取扱責任者の名札を見て、タウンページでよしもとの電話番号探して、
「〇〇さんおられますか」と電話をかけました。

すると「僕ですが」と言われ、えええ。最初に電話を取るなんて、下っぱの人やったか、と思いきや、
M-1グランプリを立ち上げた偉い人で、たまたま最初に電話を取っただけでした。
後で聞いたら、年に1回も電話を取らん、と言ってらして、ラッキーでした。
そしてもっと後で聞いたら、準決勝におしどりを推薦で押し込んだ方でした。

「おしどりと申します。よしもとに入りたいんですが」
「ふうん、おしどり。まぁ話きいたろ。今すぐこれる?」
「劇場の目の前にいます!」

というわけで、よしもと移籍が決まりました、ていうかそれも大変でしたけど!
事務所の移籍は基本、ご法度で、「禊ぎ」の期間が必要です。
約1年ほど、大阪では漫才活動をしない、したら「つぶす」と言われ、

2005年4月からよしもと所属となりました。
それまでは素人同然で賞レースの予選に数回出ていただけなので、
おしどりとしての芸歴は、2005年からとなります。

「良かったな、あかんかったり揉めたりしたら、ワシが出張らなあかんな、と思ってたけど
ちゃんとよしもとに下から入れたなぁ、これで劇場にいっぱい出さしてもらい」

よしもとに移っても、横山ホットブラザーズの闇営業の手伝いに行ったり、舞台の見学、お手伝いは色々とさせて頂きました。

そして、ここまで読んでいただいて、おわかりの通り!
横山マコト師がいらっしゃらなければ「夫婦音曲漫才おしどり」は誕生しなかったのです!

(余談:ケンパルの空気読めなさハンパなし)

よしもとに入って、数カ月でなんばグランド花月の舞台にあげて頂きました。

楽屋で、ある師匠に「ホットさんとこの子やのに、なんで『おしどり』っていうの? 屋号ちゃうの?」
と質問されたとき。

ケンパル「うちの師匠が『今時、屋号の漫才師は売れない。養成所育ちの漫才師のほうが多い。
屋号名乗らずに、自分でコンビ名をつけてみ』と言ったからです!」

と、屋号がついてる弟子をたくさん持つ師匠に堂々と話していて、
私は必死でケンパルの袖を引っ張って(黙れ、黙れ!)と焦っておりました!

お客さんを育てる、育ててもらう

マコト師に言われて、ずっと残ってるのが「お客さんを育てる」ことです。

「今はな、お客さんに育ててもらっとるやろ、
でもな、お客さんを自分も育てる、と思わなあかんで。
後輩や弟子を育てるのは当たり前でな、
人間というのは、誰かを育てるときに、一番、自分が育つねん。
育ててもらうときに育つんちゃうねん。」

「怖いもんでな、芸人についとるお客さんを見たら
その芸人がわかるわ。
どんなお客さんに育てられたか、
その芸人がどんなお客さんを育てたか。」

「TVの番組で、面白いところを字幕に出すようになったやろ。
あれはあかんわ。
お客さんをバカにさせるわ。
お客さんが自分の耳で聞いて、自分で面白いところが分からんようになる。
あれは演芸界をダメにするわ。」

上方の昔の師匠がたのいろんなネタを見て、
歌舞伎とか文楽とかオペラとか政治とか文学とか
難しいことをネタにされてる方が多くて、昔のお客さまのほうがインテリやったんですかねー、
と言ったことがあります。

「そういうわけでもないねん。
今はな、皆が知っとる童謡とか昔話とか、ネタにしやすいし皆ようやっとるやろ。
でも、それじゃあかんねん。
お客さんがあんまり知らんことでも、自分らがやりたかったらネタにするねん。
そんでお客さんに、面白そうやな、知りたいな、と思わせなあかんねん。
赤穂浪士の話とか漫才にしてな、周りが皆わらっとって、自分だけ知らんかったら、何やろこの話、知りたいな、て思うやろ?」

ホット師の勧進帳のネタとか、歌舞伎の場面は知らんでも、あぁええな、面白いな!と感じます。

「皆が知ってる昔話とか童謡とかせんでええ、自分がやりたいことやってみ!」

と言われて、一番に作ったのが『ギリシャ神話のアガメムノーンとクリュタイムネストラが夫婦漫才をしたら』というネタで、マコト師は一言、「難しすぎるな…やりすぎや…」でした!

けど、お客さまをに育ててもらい、そして自分たちもお客さまを育てようと思う、
誰かを育てようとするときに、自分が一番育つ、ということは、何度も教わった気がします。

江戸のトリ、上方のバラシ

寄席の一番最後の出番、主任を「トリ」といいます。
その前の色物が「ヒザ」

けど、上方の寄席では、音楽ショー、音曲漫才が多く、ていうか
そもそも「万歳」がルーツの漫才は、楽器を持つのが普通で、
楽器を持たない漫才は「しゃべくり漫才」として、そっちのほうが異例だったそうです。

楽器を持つ漫才、音曲漫才、音楽ショーは以前はたくさんいらして、
横山ホットブラザーズだけでなく、かしまし娘、宮川左近ショー、フラワーショー、
東洋日出丸・朝日丸、三人奴、暁伸・ミスハワイ、まだまだたくさんいらっしゃいました。

音曲漫才が、トリを務めることを「バラシ」といったそうです。
昔の寄席は、木戸が狭く、下足番で込み合います。

だから、「バラシ」は、テーマ曲を長めにして、ネタが終わったあとも
お客さまが帰るときにずっと演奏を続けていたそうです。
映画のエンドロールみたいな感じで。

そうすると、ネタが終わってエンディングテーマが始まったときに帰るお客さん、
長めのエンディングテーマのときに帰るお客さん、
最後の演奏してる曲を聞きながらゆっくり帰る準備をするお客さん。

「バラシ、いうんは、お客さんの三段帰しができるんやなぁ。
今は、そんなんもう無いけどなぁ」

そういう古い寄席の話もいろいろと聞きました。

続く!

長くなってしまいました、後半に続く!!


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